そういえば、昨日は8月6日だったんですね。
ドナルドのみんなが平和についての日記をつらつらつづっていました。
確かにかなりうってつけの美味しい日記ネタですよね、何でぼくは見落としてたんでしょうか。
『過去に多くの死者を生んだ戦災の日を、日記のネタとは何事かー』なんて人もいるかもしれません。でもぼくたちはその出来事を知りません。特にぼくなんかは、その戦災で親しい親族を亡くしたとかいうことすらない世代です。今住んでいる地域に、昔あった史実くらいにしか思わないわけです。そんな感情しかない人間が、訳知り顔で痛ましい表情をしなくてはならない事情が、どこにありましょうか。確かに、それが通例儀式というのなら黙祷もします。森君も平和記念式典にいったそうです。
(綾瀬はるかを見に)ですが、ぼくたちの黙祷はただ一分間目を瞑っているだけに過ぎませんし、あわよくばそれだけで戦災の憐憫に浸り、ノスタルジーな気分を満喫しているだけかもしれません。何も知らないくせに、何も思うところはないくせに。
だから、そう、ぼくたちは何をするべきなのでしょう?
この被災地に住んでいて、執拗に平和学習というものを受けながら、こんな感情しかもてない子供ができるのです。ぼくたちは何をするべきなのでしょう?
なんてね。正直ぼくは『平和のためにぼくたちは何をするべきなのか』ということを考えるほど、戦争や平和に興味があるわけではありません。その程度です。この地の平和教育は、そんなものです。今日は8月7日、60年前ここには、たくさんの腐った死体があったのですね。ぜんぜん全然ぜーんぜん、実感はありませんけど。
ただ、もしぼくがこの地に住んでいなかったら、こんな文章すら書いていないのかもしれません。真に、平和について語ることなんてなかったのかもしれません。だからこの文章は、ぼくなりの『戦争と平和論』ということにしておきましょう。そうすれば、この地に住んでいる意味も、多少はあったのでしょうから。
たつや@今日も暑い日